日記・コラム・つぶやき

福山雅治さんお誕生日おめでとう

  今日は、2月6日・・・

 そういえば今日はあの人の誕生日ですねbirthday

 そう、あの人とは・・・ 福山雅治さん でございます。

 もう39歳・・・・ ですってchick!! え??来年は四十路ですか・・・

 といっても最近の彼を見てないから実感無いな・・・。 どんなになってんだ???

 私の中で彼は桜坂の時代で止まっている・・・sweat02 

 若かったころは彼に夢中で、もちろんファンクラブにはいっており、オールナイト日本公開録音の入場券が当たったり、なにか写真なんかの展示会みたいのを見に、東京まで一人でいったものでした。 それももう10年以上前になるのか・・・。

 もっと迷惑な話が、長崎に旅行で行ってそのときにどうしても彼がどんなところで育ったのか見たくて、houseを見に行ったっけかな・・・coldsweats01

 迷惑な話ですよね・・・ もう12~13年前になりますかね・・・ 

 もちろん、チラッと見てすぐにかえりました。 

 もうずいぶん昔なので、ウル覚えですが、 福山 と書かれた表札が、ボロボロにされていた・・・。 わたしはきっとファンたちがあの表札の欠片をこわしてもって帰っちゃってあんなになったのではないかとおもった。 家まで行く私も迷惑だけど、それはNGなんじゃないの??って思った。

 本当に好きなんだったらそんなことしちゃだめだよね thinkって・・・

 これからもあの色男さんのマシャ様の活躍期待していますheart01

 ていうか活躍なかなか見れないんだけどね・・・ でも、今でも日本人の理想のタイプは?ときかれたならばわたしは 福山雅治です! と迷わず答えますsign03

 そしてマシャ様、家まで見に行ってすみませんでした。がまんできませんでした・・・sweat01

 ちなみに、私 奥田民雄さん の実家も見に行きました。 これは、お友達に頼まれて付いて行きました。

 今考えたら家見てなんになるんだ?? だから?ッて感じですね。

 マシャさま、お誕生日おめでとう ほんとにいい男ですよね。どうして独身なんだろう・・・?

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え・・・? おかあさん、大丈夫?

 けさ、実家の母に電話した
 昨年父が亡くなってから、一人になった母がきになり、だいたい毎週週末に電話をかけている私。

 mobilephone 私 「もしもしー
 telephone 母 「もしもし
 mobilephone 私 「元気?
 telephone 母 「どうしたん? (どうしたのかなんて、いつも週末電話してるのに・・・)
 mobilephone 私 「どうしたんって・・・元気かと思って電話した・・・大丈夫?
 telephone 母  「大丈夫よ、なんで??トイレにおったけーね。ちょっと風邪気味じゃけー薬さっき飲んだ
 mobilephone 私 「ほんまー・・・大丈夫?」(あ、だからいつもと声が少し違うんだ・・・おばの声としゃべり方に良く似ている)
 telephone 母 「大丈夫よ、なんかあったん?
 mobilephone 私 「いいや、なんもないよ、なんで??

   こんな感じで、5分弱会話が続いた・・・・・

 私はなにかが違う think と思いながら、話していたが、それが母の姉なのではないかflairと疑い始める。
 もしかして、母が病気になって、叔母が母の看病をしに家に来ており、海外に住む私に心配をかけまいと、母になりすまして私と会話している・・・ と思い始めた。

 私は、 「おかあさん、おかあさん、おかあさん??????」
 と何回も呼んでみた。
 母は母で、「何かあったんじゃないの?」 と何度も聞いてくる。

 私の想像はどんどんふくらみ、母にきっと何かあったからとぼけてか何かで、そうやってきいてくるんだ・・・。と思い込む。

 母 「え?? 誰? あんた誰??」
 
 だれって・・・?
 おかあさん、どうしたんだろうか・・・?
 昨年の父の死と、近所の母を悩ませているおじさんの嫌がらせのために疲労がたまり、おかしくなってしまったんだろうか・・・?
 自分の中で、想像は悪いほうへ、悪いほうへ・・・

 しきりに誰かと聞いてくる母。 


 telephone 母 「電話番号違うんじゃないんかね?」

 え・・・まさか・・・・・・・・・sweat02そこではじめてそうかもしれないと気づくわたし・・・。

  電話番号を伝えてみる。

 「あー、ひとつ番号が違うねぇ~」

 impact sweat01 crying bearing coldsweats02 ng shock punch bomb annoy

 オー マイ ガーーーーーーーーーshock (心の叫び)

 mobilephone 「すみません・・・番号間違えたみたいです・・・coldsweats01
 telephone 「そうじゃろ~ 私もなんかおかしいと思ったんよ、今日、昼間にあったのにどうしたんかな?と思ったんだけど、なんか声も似ちょったしね、話の筋もおかしいとは思いながら、なんとなくかみ合うけぇね・・・。」
 
 telephonemobilephone はははははーーー(笑)」 2人
 
 mobilephone 私     「お風邪引かれているんですよね、お大事にしてくださいね
 telephone おばちゃん 「うん、ありがとう、おかあさんのこと心配してくれてありがとね~!!おやすみ
 私     「おやすみなさい

 会話は10分とはいかなかったが、それに近いぐらい続いたと思う。
 
 不思議なことに、私と分かるキーワードをこの日に限って一言も言わなかったみたいだ。
 たとえば、 「おはよう」と私が言えば、日本は夜なので、おかしいと思うだろう。おかあさん?と言った後に、たいがいなら自分の名前を言うのになぜかこの時は言わなかったみたいだ・・・。いろいろな偶然が重なってのできごとだった。

 母にその後電話してこのことを話すと大笑いしていた。
 オレオレ詐欺とかあるから、おかしいと思ったとき誰???ってこわくなったんじゃない?
といっていた。

 ドキッとしたけれど、いい人で、最後は心が少しあたたまったきがする。
 こんなとき、悪い想像が膨らんでしまうのは海外で親と離れて暮らしていてなかなか顔を見ることができないからだろうか・・・? 国内であまり逢えないのならいざとなった時にでもすぐに飛んでいけるが、地球の裏側に住んでいるとそんなわけにもいかず・・・。

 母にはいつまでもげんきでいてほしいものだ。
 






 

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贈り物の中のこぼれ話。

 さてさて、先日なっちゃんからの贈り物を無事に入手できて安心したわたしたち。

 その彼女からの贈り物の中には封筒loveletter が・・・

 eye 中を見てみる・・・

2572

 あら、これって私のことだわ・・・coldsweats01

 内容は、

 <父とごろ寝がしたい>

 河郷@往診ハラショーです。

 往診は暑く、いやな季節ですね。

 今日は、白血病の末期の往診依頼があり、早速往診しました。

 家で家族が看取りたいのでしょう。

 バルンをつけて普通の布団に寝ています。

 意識レベルも低く、どうみても4・5日も難しい感じ。

 私 「ベッドの方が、本人・家族も楽では?」

 娘 「父と子供とごろ寝がしたいんです」

 そばに、あかちゃんがすやすやと寝ていました。

 そんな理由があれば、何も言えませんでした。

 ちょっと、いい話かなとおもいました。 

 といったものだった。 こちらの先生に、往診を受け入れて頂いたおかげで、父を家につれて帰ることができた。

 なにに掲載されたのか、詳しいことは知らない。

 その時のことをはっきりと覚えている。確かにいろいろケアをする上でも、父の呼吸状態も悪かったし、上半身を少し起こしたほうが呼吸のためにもいいし、それが床ではなかなか難しいため、ベッドのほうが楽にできることは分かっていたが、体を動かすと激痛が走ることと、いつものように畳の上でのみんなのザコ寝の時間がすごく暖かい時間に感じていた。

 父一人ベッドの上に行ってしまったらまた一人孤立してしまう気がした。

 畳の上にいつものようにゴロンとし、そのまわりをPapiが這い回り、ときどき父の上を這おうとしたりと、むちゃくちゃかもしれないが、わたしは、そのほうが数倍もいいと思っていた。

 意識レベルはムラがあり低下していたが、24時間一緒にいたわたしたちには、確実にその表情の変化や、たまに発する言葉などで、本人はしっかりいろんなことが認識できていたとわたし達は思う。

 父が亡くなる前の日に、父の寝ている横で、母がPapiを抱っこし、童謡の替え歌を歌って踊ったのをわたしとなっちゃんも笑いながら楽しんだのをよく覚えている。 その時の父の、苦しくて顔がカチカチにこわばっている中に笑顔が見えた。

 なんだか、またいろいろ思い出しちゃったな・・・

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なっちゃんからの送りもの、無事うけとりました。

 先日、日本のなっちゃんと話した。 話によると、荷物present を2~3週間前に送ってくれたらしいが、まだ私の手元に届いていなかった。 不在届けもなし・・・。

 なっちゃんが、日本の郵便局postoffice に問い合わせてくれたところ、アメリカ国内には郵送されているので、日本の郵便局のかんかつではもうないらしい・・・think

 わたしは、アメリカのこういったサービス関係は日本と違っていい加減なことが多く、働いている人たちの責任感の薄さにびっくりする経験がよくある。日本ではありえないangry とムカついてしまうことも・・・。 だからあまり信用していないために、荷物のことは心配であったthink

 なっちゃんが、アイテムナンバーをくれて、わたしはそれを持って郵便局postoffice へrun

 送ってくれてから1ヶ月は経っていると思うので、期待は半分であったが・・・

 あったーsign03 あったのだsign03

 責任感の強い国、日本であれば当たり前のことかもしれないが、荷物があってものすごくびっくりして、うれしかったhappy01

 さてさて、箱の中身は・・・

2530_3  その一 ; ふりかけ、パスタソース、コラーゲンのおかし、私の好きなシールなどなど。

2533  その二 : たくあん大好きのわたしをよくご存知で! Papiの食料 コブクロさんとやらのcd(聞いたことないから楽しみ) あやかさんのcd(前回日本に帰ったときチラリとTVショーで採り上げられていたのを見てきになっていた) 宇多田ひかるさんのcd

2534  その三 : そしてこれがいつものお約束のもの。 それは地元のチラシ!! これをなっちゃんからの荷物にはいつも入れてもらうのがお約束!! 地元、電気屋の「Deo Deo] 「YAMADAでんき」 のチラシで、今どんな新しいテクノロジーが日本には出ているのかチェック!(アメリカは日本よりかなり遅れている・・・と思うがどうだろうか・・・?) 「ユニクロ」 「百斤ショップ」 「ドラッグストアー」 そしてなんといってもここ、マイブームのshine「ファッションセンターしまむら」のチラシshineはかなりのお約束である。

 雑誌や本よりも私はこのチラシを好み、熟読していることをなっちゃんは分かっているのである! さすがである。

 もうひとつおもしろいものが、今回の荷物には入っていた。長くなったので、これは次回に紹介することにしよう。

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母を残してNew Yorkへ

 葬式が終わって、2日目の7月15日、わたしは、疲れ果て寂しい思いをしている母を残し、PapiとNew Yorkへ帰ってきた。

 本音は母のことが心配で、もっと日本にいたかった。でも、New Yorkに家族を持った今、これが日本に居れた、最長の期間だった。 

 New York では、Amorcitoが一人、首を長くして待っていたから。

 今では、母のことが前よりも、もっともっと心配な毎日である。

 時々海外に暮らすことを選んだ私が軽率だったか・・・?もしこちらで結婚せずに日本に帰っていたら・・・などという考えてもしょうがないことが頭をよぎることがある。

 親になってはじめて分かる、親のありがたさというものが、やっと理解できてきた。人間は本当に一人では生きていけないんだということが分かり、自分も両親に育ててもらったということをまだPapiを生んでそんなに経っていないが、ひしひしと実感し、親への感謝の気持ちが出てきていた矢先にこんなことになってしまって、本当に残念だ。

 でも、最後の最後だったが、父との距離が少し縮んだような気がする。

 いつも気が合わないことが多い二人で、長時間一緒にいると喧嘩になることが多く、優しい言葉もろくにかけられないでいたが、父に愛されていたことは良く分かっていた。

 父が逝く数日前に、苦しんでいるところを見ているとき、

 「お父さん、今まで育ててくれてありがとうね」 ということができた。その時父は深くうなずいて、「お母さんのことよろしく頼むよ」 と私にいった。

 いつも照れくさくて冷たく当たっていた私が、ありがとうの言葉をかけることができて本当によかった。

 母のことは心配だが、New Yorkで家族を持ち、こちらで生きていくと決めたのは自分だし、自分の選んだ道に後悔することなく、今できることを精一杯やりながら生きて行きたいと思う。

 20086_331  実家で眠るPapi。当時9ヶ月。

 彼は、じじのことをもう忘れてしまっただろうか・・・?でも、これから先、この時の写真やビデオを見せながら、じじにおもいっきり愛されていたと言うことを伝えていこうと思う。

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父のいきたかった所へ

  母の疲れは、最高のところまできていたが、今度は、葬式の段取りだ・・・。

 母は、体と、精神的な疲れと戦いながら、事務的作業をこなさなくてはならなかった。 友引が重なったと言うこともあり、葬式は7月13日に行った。

 たくさんの人たちが最期に父の顔をみにきてくださった。

 わたしはまだ、父が死んでしまったということが受け入れられていなかった。葬式中、不思議な感じがして、誰かまったく知らない人の葬式にいる気分でいたり、突然父の死を認識し、おいおい泣いたり、そうかと思えばまた他人事のような感覚でボーッとしたりと・・・

 火葬された父を見たときは、「父が燃えた」 という気持ちはしなかった。「あれはもう父ではない」 とおもった。 となりで母は、骨になった父を見て、泣き出した。

 「お母さん、あれはもうお父さんじゃないよ、お父さんと思ったらだめいね。」 というと 

 「うん、そうよね・・・」 と悲しそうにいっていた。

 あれは父であって、父ではなかった。

 父は、まだ元気な頃、友人に「わしがもし死んだら、骨を宮島に撒いてくれんかね。」といっていたらしい。

 わたしと、父の友人と、なっちゃんは、骨をほんの少しのかけら、持ち帰った。

 父は、競艇ファンで、宮島競艇場がだいすきだった。やっさんこと、横山 やすしさんも、宮島競艇が好きで宮島に散骨されたときいたことがある。 今頃、父は宮島でやっさんと好きだった酒でも交わしながらのんびりやっていることをねがう。

 わたしは、父の骨のかけらを、父が今年、2009年に来る予定を立てていた、New Yorkへもちかえってきた。

 数年前にNew Yorkへ来て、New Yorkがかなりきにいっていた。

 「来年は、孫の顔を見に、New Yorkへいくんじゃ~」 とまわりのみんなにはなしていたらしい。逢う人逢う人に父がそういっていたことを知らされた。

 なかなかスポットが決まらないが、もう少ししてあたたかくなったら、ひとかけら 「自由の女神」 のみえる所にでも連れて行ってあげようと思う。

 2009_011 Brooklyn Bridgeを歩くわたしたち親子のうしろすがた。両親がNew Yorkに尋ねてきたとき

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お別れの時がやってきた・・・自宅でみんなで過ごした4日間

  父が帰ってきてからと、病院の時も含めて、たくさんのお友達や同僚の人たちが、お見舞いにきてくれた。 みんな本当に心配してくれており、かわりはてた父の姿を見て、たくさんの人が涙を流していた。

 それでもみんなが、「がんばって元気にならんにゃいけんよ」 と父に声をかけてくださっていた。 父は最後まで、意識はしっかりしていたので、すべて分かっており、たまにうなずこうとするしぐさも見えた。

 痛み・呼吸困難の苦しみ・痒み・恐怖、をしっかり感じてしまうので、痛み止めのモルヒネで意識がもうろうとしてしまっていた方が本人的には楽になれるのではないだろうか・・・とおもった。 

 その反面、来て下さるお友達たちの声がしっかり理解でき、最後にみんなに逢えた喜びと、そして何よりも、その時誰よりも逢いたくて逢いたくて心待ちにしていた愛する孫が常に隣にいることを、ちゃんと認識できていた

 点滴による大量の補液がなくなったためパンパンに浮腫んでいた体から水が引いた。

 体から、水が引いたのと、家での滞在による精神的な安心感のためか、嚥下が困難になり、ステロイドの内服ができなくなってしまった以降も心配していた究極にひどくなる呼吸困難の発作もなくなった。

 家での父、母、なっちゃん、Papi, 私の5人の数日間は、父の苦しむ姿をみていると、かわいそうで涙が止まらなかったこともあったけど、とてもあたたかな時間だったと思う。

 父の変わり果てた姿を常に目の前にし、家でゆったり生活することで、その状況を受け止める心の余裕が少しだけ私も母もできてきたのではないだろうか・・・?

 

 父は7月11日(4日目)の朝、11時36分、息を引き取った。

 闘病中の苦しさと、死と直面する恐怖は、はかりしれないものであった。

 死ぬほど苦しいってどんなに苦しいんだろう・・・。

 死に対する恐怖は元気な今でも持っているが、自分がもうすぐ死んでしまうと確信した時の恐怖にはどこまでたちむかっていけるのだろう・・・ でも避けて通ることはできないものである。  と父の姿を見ながら自分に置き換え考えた。

 人間は生まれたからにはいつかは死が来る。それは避けては通れない。

 どういうかたちで、その死を迎えるようになるかは分からないが、いくら、辛いかたちであったとしても、それは通っていかなければならない道である。

 ということを父の死を通して改めて学んだし、自分の死に対する考え方がしっかりしてきたきがする。

 父の死後の顔は、苦しみで眉間にしわをよせ、こわばっていた顔から、穏やかないつもの微笑み顔になっていた。とうぶんそんな顔は見れていなかったので、少しほっとした。

 父の死はとても悲しかったけど、反面、苦しみから解放されて、今頃安らかに天国で過ごしているだろうとほっとする面もあり、複雑な気持ちであった。

20086_240 孫が抱けて本当によかったconfident

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看護師3人での在宅ターミナルケア

 父は、家に帰ってきた。

 呼吸の管理が、一番の不安だった。呼吸困難に対しては、点滴でステロイドを投与していたが、家に帰ってくるにあたり、点滴は抜ぬいており、経口投与となったので、嚥下困難となった父が、薬をきちんと飲めるか心配だった。

 しかし、病院では、 夜になると、呼吸困難が急速にひどくなって、まったく眠れなかった父だったが、家に帰ってきたその日、舌根沈下による呼吸時のイビキ様の音は立てながらも、父はよく眠っていた。

 母も、父の付き添いで、病院に泊り込みが続いており、夜になると状態の悪くなる父を一人で不安になりながら看ていたこともあり、家にみんなで帰ってきて安心したのだろう。 父の横に布団を敷き、すぐに眠ってしまっていた。

 父、母、わたし、Papiの4人で、横並びになり、眠った。なっちゃんは、父の最期を一緒に看取る覚悟で、家に泊まりこみで私たちを支えてくれた。

 母、なっちゃん共に看護師、私は元看護師ということで、看護師3人での父の24時間体制看病が始まった。

 初めてのことだったので、いつでも医者とコンタクトの取れる病院とは違い、どうなることかと緊張しなかったことはないが、父も含め、家族でゆっくりとした時間が過ごせたのがすごく良かったと思う。

 時間ごとの、検温、点滴、輸血、毎日の採血などなどの業務による看護師さんたちの訪室、そのたびに父は気を使っていたし、ボロボロになって採血の難しい血管に何度も針を刺されることもなくなった。

 在宅ターミナルケアとは、治る見込みのない疾患を持つ患者の最期をその人らしく、よりよく生きれるように自宅でケアすることである

 とはいうものの、いざその状況になるとオドオドしてしまうものだ。

 私と母は、在宅訪問してくださる医者と看護師さんが家にこられたときに、置いていかれた薄っぺらい冊子に目を通した。

 その冊子には在宅ターミナルケアをされた人たちの体験談が何件か載せてあったりした。

 はっきりとは覚えていないが、家で最期を迎える患者にとって、いつもの何気ない家での音、たとえば、戸が閉まる音・家族の話し声・水道の水の流れる音・近所の人の話し声、などが、患者に安心感や、安らぎをみたいなものをあたえる。と記してあった。

 わたしは目を閉じて耳を澄まして家での日常に発せられる音を聞いてみた。扉の閉まる音は各家でそれぞれ違うし、すべて家の中で発せられる音というものは、その家だけの特有な音であることに気づいた。あと、家では長年父が世話をして飼っている金魚の水槽があり、その酸素がブクブクなる音が、ずーっと聞こえていた。 たしかに、この元気に過ごしていた時に何気なく聞いていた音というものは、死を目の前にした不安な患者の心を和らげてくれる効果が非常にありそうだと思った。

 父は、広島カープの大ファンだったので、テレビでカープの試合をボリュームを少し大きめにしてかけた。その試合は非常に面白いもので、たしか1対8くらいでカープが負けていたのが、試合の最期に一気に逆転勝ちしたゲームだった。父はこの時期、ほとんど言葉を発することはなく、うなずくのが精一杯で、一生懸命呼吸をしている表情であったが、この時わたしが

 「お父さん、カープ逆転勝ちしたね」と言ったら、苦笑いしていた様にみえた。

 

 自己満足かもしれないが、つれて帰ってきて本当に良かったと思った。

 

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父を自宅につれて帰る決意。自宅で看取ることに。

 7月7日七夕の夜、「父の様子がかなり悪化している」

 と付き添っていた母から4:30am頃電話があった。私となっちゃんは、父の友人に車で急いで病院につれていってもらった。

 呼吸状態はかなり悪化していたが意識はしっかりしていた。呼吸困難のため、なかなか言葉を発するのが困難であったが、

 「家に帰りたい」 と繰り返し言っていた。

 自由に動かない体を必死に起こそうとして、ベッドから起き上がろうとしていた。 この時、父のためにしてあげられることを悟った。痛みや苦しみの緩和は、医者に処方してもらう薬のみで、私たちができることは残念ながらなかったが、

 「家につれて帰ることならできる。 そしてそれは父が今一番必要としていることなのではないだろうか・・・」

 と思った。この時の医者からの話しでは、父の病気は

 骨髄異型性症候群から白血病にすでに移行しており、全身状態的には、今死んでしまってもおかしくない。 ということだった。

 「つれて帰るなら、意識のはっきりしている今しかない。」と思った。

 つれて帰るには、点滴などの補液や、毎日していた輸血もすべてストップしなければならない。そのことが命を縮めることになるのかもしれない・・・というのが母が決断できなかった大きな原因であったとおもう。

 母は、「私には決められないから、あなたが決めてちょうだい。」とわたしに言った。 

 わたしは、「病気の根本的な治療は不可能な状態なわけで、こんな苦しい状態で、少しの時間でも長く、苦しい思いをしながら病院で過ごしたいとは父は思っていない。」と父のいろんな発言を聞いていたうえで、確信していた。

 わたしは、母に、「家につれて帰ろう。」と迷わず伝えた。

 7月8日、主治医に父を家につれて帰りたいという希望を伝えた。

 とにかく痛みの緩和と、呼吸困難のできる限りの除去を主治医にお願いし、痛みと呼吸困難に対する薬を持ち帰れるようにしていただいた。主治医はとても私たちの状況を理解してくださっており、父の帰宅を許可してくださった。 早速その日に寝台車で、父を連れて帰った。

 「お父さん、うちだよ!うちについたよ~」

 父は、痛みと呼吸困難による苦痛のため硬く閉じていた目をゆっくり開けて、ゆっくり辺りを見回してから、大きく深呼吸した。

 「お~、もう着いたんかね」

 表情が一気にやわらぎ、又目を閉じた。

20086_060 1ヶ月前

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日本滞在延期することに

 7月に入り、父の病気は悪かった状態からさらに急速に悪化。一人で起き上がることも困難になる。 

 わたしとPapiは、7月4日にNew Yorkに帰る予定であった。

 Amorcitoは 「わたしたちのいない生活がつらい、Papiの顔が早くみたい。早く帰ってきてくれと毎日電話で言ってくる。」

 父の状態を毎日泣きながら電話で説明し、様態は分かっており、心配はしているものの、「日本にもう少しいてもいいよ」の言葉は、彼の口からは聞けなかった・・・。 

 わたしは父の最期を見とどけるまで日本にいたいけれど、それをAmorcitoに伝えることがなかなかできなかった。それは、それを伝えたら、私の状況は理解するものの、きっとがっかりして怒ってしまうのではないかと、恐ろしかったかったからだ。

 父も母も、一人で後ろ髪を引かれながらアメリカに帰ったAmorcitoがわたしたちの帰りを心待ちにしていることを気にしていた。

でも、そんなこんな大事なことが変なところで気を使って言えない夫婦でいいのだろうか・・・? 

「父の最期を看取りたいから、日本にもう少しいたい」 

 誰もが理解できる大きな理由だと思う。にもかかわらず、自分はどうしてそれが自分の夫に言うことに勇気がいるのか・・・?と考えた。もし、このままアメリカに帰ってしまったら、これから先のAmorcitoとの関係は、こんなに大事なことも言えない様な、自分の言いたいことも言えない関係になってしまうのか・・・そんなのは困るし、このままアメリカに帰って最後を看取れなかった事を彼のせいにして生きていくことになるかもしれない。それに、何よりも母の支えになりたいと言う気持ちが大きかった。母は一人でがんばっていた、こんな苦しい時に母の隣にやっぱりいたい。

 ある日、看護師さんにあったとき、立ち話をした。

帰国を延期しなかったらもうお父さんに逢えないんだよ、後悔するよ。帰国は延期しな。」

とはっきり言われ、自分ではそれは分かっていたことだけど、その言葉が後押ししてくれ、Amorcitoに言う決意をした。その言葉には、私たち家族を心配してくれている看護師さんの気持ちがとても込められているように感じた。 もし、わたしがこの看護師さんの立場だったら、このような言葉を患者の家族にかけていただろうか・・・?業務を淡々とこなすことに夢中で、そういった家族に対する精神的な面へのフォローのためになかなか他人のビジネスに足を踏み入れるような発言は避けていただろうと思う。

 その日、Amorcitoに電話で帰国延期を報告し、飛行機のチケットをもう一度取り直した。

 Amorcitoははじめ、がっかりして、

 「息子にも妻にも逢えず、自分がどれだけ一人でつらい日々を送っているかわかってくれ。  でも、状況は理解したから大丈夫だ、しっかり看てあげなさい」 といってくれた。

 母と私は涙を流して帰国延期を喜んだ。

 翌日父に報告したら「ごめんな、ありがとう」といっていた。でもNew YorkのAmorcitoのことを大丈夫か・・・?と、かなりしていた。 自分が死にそうなくらい苦しい時でも、仕事のこと、私たちのこと、まずは他人の心配をしていた。

 このころの父は、心臓、腎臓の機能も低下し、補液や、毎日の輸血により体がパンパンにむくんで来ていた。呼吸もかなり困難になってきて、腰のあたりから、全身にかけての痛み(本人いわく、上半身と下半身がばらばらに砕け散りそうな痛み)は常にある状態だった。

 母は、仕事の休みをもらい、病院に泊り込みになった。わたしは、Papiとの病院への泊り込みは不可能なため、家から電車で片道1時間以上かけて病院に通った。なっちゃんはずっと私たち親子のそばで、子守・看病・精神的な支えなどと、いろいろ助けてくれ、心細いわたしを支えてくれた。

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進行していく骨髄異型性症候群,看護師だった時のことを思い出した

 Amorcitoは3泊し、一人、New Yorkへ帰った。

 その後、父の病状が悪化・・・。 突然の40度以上の熱発、それによる全身の悪寒と、倦怠感、全身の強い痛み、などの症状が日に日に増してきて、外泊できなくなった。

 父は、この病気が治るものではないことは知っていたけれど、また、落着いて家に帰るという気持ちは持っていた。

 毎日、Papiが病院に来るのを楽しみに待っていた。

20086_375

 あるひ、ちょうど病院に母と行った時、父はベッドの上で一人で激しい痛みと戦っていた。わたしたちはびっくりして、看護師さんを呼んだ。父は我慢、我慢でなかなかいろいろと看護師さんに気がねをして頼めない性格のだった。(私の知らなかった一面) 

その時母が、父の背中のほうに立ち、背中をさすりながら、ぼろぼろと涙をこぼしていた、目の前で苦しむ父の姿と、それを哀れみ泣く母の姿を同時にみたときは、つらかったなぁ・・・

 母の疲労は、精神的な疲労と、看護師の仕事と、病院通い(病院は、広島にある)でかなりのものだった。でも、張り詰めた気持ちがあの過酷なスケジュールをこなしていたんだろう・・・。

 父の様態は日に日に悪化・・・。40度近くの高熱とそれに伴う全心痛は、毎日になり、呼吸困難もでてきた。食事もとれなくなってきた。貧血も日に日にひどくなってきたため、輸血も毎日するようになった。

 ほんの二週間そこらで、立つことすら困難になり、トイレにも行けなくなった。

 個室に移動した。このころ、本人は自分の状態を悟っていた。痛みに対しモルヒネを使用しはじめ、ときどき意識がもうろうとしながら、

 「いつになったら判決がくだるんじゃろうか・・・」と私にきいてきた。

 「はやく、この苦しみから解放されたい・・・と」 体はどんどん病にむしばまれてはいるものの、頭の中はとてもしっかりしていたので、痛みや苦しみがしっかりと分かっていた。 それがまた、みているほうもつらかった。 

 そんななかでも、Papiが病院に来ると、笑顔で「Papi-!!」とよび、手を握って喜ぶ姿があった。

 私の家族は3人家族だが、わたしの高校からの親友、なっちゃんが私たち家族のそばについてくれ、ほぼ毎日助けてくれた。 子ずれでなかなかいろいろ大変な私をサポートしてくれたり、病に寝たきりになっている父にジョークをとばして笑わせたりと、付きっきりで助けてくれた。

 看護師の仕事をはなれて、何年にもなるが、患者の闘病・死には直面したことがあるわけだが、いざ父がこんなことになったとなると、まったく別の立場でこのシチュエーションに立ち向かうわけで・・・。看護師をしていたときは患者の家族の気持ちというものはなかなか深いところまで理解できていなかったことを改めて痛感した。

 これもなかなか微妙なもので、もしそのつど感情移入してしまうと、今度は業務に支障をきたすだろう・・・ 仕事をしている時から、「人の死」というものに慣れてしまうのがすごくいやだったのを覚えている。

 

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「骨髄異型性症候群」なんでそんな病気に・・・???

  父の病気を知らされて、飛んで山口帰りたいわたしでしたが、ヴィザの関係で、帰るに帰れず、イライラする日々が続きました。

 グリーンカードの申請をおねがいした日本人の弁護士の人が、なかなかスムースに申請を進めてくれないために、渡航許可の申請ができずに、2ヶ月弱経過していました。いつになったら帰れるのか?? 父に急変があったらどうしよう・・・と気が気ではない日々でした。

 はじめにお願いした日本人弁護士は結局まったく当てにならず、(最後は書類提出を放置されており、連絡もない状態)弁護士を変え、事はスムースに進み、2週間以内に書類提出、その後、緊急帰国許可を出す手続きを移民局へ行き申請しました。(渡航許可がでるまで、だいたい申請後数ヶ月かかるため)

 はじめに行った日本人の弁護士は、そういう手続きで許可が出るということもご存知なかったため、「数ヶ月待て」といわれていましたが・・・ 弁護士さんでも物知りのところとそうでない所、いろいろあるんだなと思いました。ちなみに、あとで行ったアメリカ人の弁護士さんは手数料は前者の半分以下で、きちんと仕事してくれました。

 手続きの進まないことなどでAmorcitoとも本当によくあのころはイライラからけんかになりました。 が、そんなこんなで、弁護士さんの協力もあり、6月はじめに日本に帰国がきまりました。それまで、父は孫の顔を見るまでは・・・と今までになく体調管理に気を使っていたらしいです。

 第二次世界大戦で、広島に原爆が投下された時、当時2歳だった父は広島にいました。父はまだまだ小さかったので、そのときのことは覚えていませんでしたが、被爆手帳を持っていました。父がこんな難病 「骨髄異型性症候群」 にかかったことは被爆の関連も否定できないと主治医はおっしゃっていました。わたしもそう思えてなりません。

 今まで、あまり過去の戦争のことについてなど深く考えたこともなく、知識もまったくない私ですが、なんだか複雑な気持ちになりました。今の私はこのアメリカに、「住まわせてください」とお願いし、許可をいただいて身をおかせて頂いています。そのことについても、とても皮肉なものだな・・・ とおもいました。

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海外で暮らす切なさ・・・昨年を振り返る。

                山口県岩国市 錦帯橋 

1

 さて、2009年もはじまり、1月2日となりました。

 日本は、お正月はもっともっと盛り上がる・・・。New Yorkではそうでもないもんだ・・・。テレビも街もとくにお正月特有の華やかさも目立ってない。日本のお正月番組やおせち料理、着物姿のお姉さんや、初詣がなつかしい・・・。

  わたしの実家は山口県、実家の母は、今年は一人のお正月をむかえました。昨年までは、父と母2人だったのに・・・。

  2008年7月、もう約半年になるのか・・・父が白血病で他界しました。65歳でした。2008年の2月ごろ、突然の激しい倦怠感のため、病院に受診した所、ものすごい貧血がみられるため、緊急入院、精密検査。約1ヵ月後に、「骨髄異型性症候群」と診断されました。この病気は予後のよくない病気で、白血病に似た病気で、くすぶり型白血病とも言われているみたいです。

  父との関係は、いつも長い間一緒にいるとすぐ喧嘩になってしまう、なかなか性格的に合わない感じですが、お互い心配しあう、あってもなかなか照れくさくて思ったことをお互い口に出せないといった感じの2人でした。

  そんな父が病気になったとNew Yorkに、ある日突然母から電話がありました。母は、私が心配するからと話そうかどうか迷ったあげく、もしものことがあったら・・・と思い切って電話してきました。その時の父の状態は、いつ大出血などで何があってもおかしくない状態でしたが、輸血を定期的にしながら、外泊で家に帰ってきていました。

  2007年に私が出産して、孫の誕生を、誰よりも、誰よりも、大喜びして早く逢いたいと首を長くし楽しみにしていた矢先のニュースに、ただただ戸惑うばかりでした。

  そのころの私は、学生ビザから、ちょうどグリーンカードに切り替えなければならないときで、弁護士を使って、グリーンカードを申請するところで、国外に出るに出られない状況にあったのです。これが数ヶ月違っていたら早くても学生ビザがあったし、遅くてもグリーンカードの申請後の許可がおりていただろうし、スムースに帰国できただろうと思います。

  父は、孫にあうまでは・・・という思いがとても強かったみたいです。母は、一人父の闘病生活の支えを、つらいなが、一人で一生懸命がんばっていました。

  このとき、海外で暮らすことを選んだ自分は、本当にこれでよかったんだろうか・・・?と疑問に思いました。疑問におもったところで、今の自分の手にした家族は、日本に帰っていたらなかった・・・と思うと、今まで「自分のしたことに後悔しなくていいように」と行動してきた私ですが、いろいろと考えました。

 答えは、すでにこの道を選んでしまったのだから、その今の自分をまずは受け入れ、今できることを後悔しないようにするようにしよう。と思いました。

  こちらで暮らすと決めるまでに、「親の死」ということをまったく考えなかったことはありません。でもやっぱりそんなことは真剣に考えたくない・・・ありえない・・・と現実逃避していた自分がいました。でもこんなに急にその悲劇がくるなんてまったく予想もできなかったことです。海外で、家族を持ち、生活していくということは、独身で身軽にいつ何が日本であっても、いつでも帰国できる状態とはまったく違うことをこのとき強く認識しました。

  

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街中、クリスマスショッピングも大詰め!!

  本日のNew Yorkは半端なく寒いです。bearing 道路のゆきは解けてなく、カチカチに凍ったまま・・・。危険な状態のまま放置されています。ちょっと日本では見たことないです。

  ところで明日はbellbellbellクリスマスイヴbellbellbell 不況、不況といいながらも、お店はたくさんの最後のクリスマスショッピングを楽しむ人々でごったがえしておりました。wobbly

おしゃべりして投げキッスするエルモチャン2291_4 2299_4                   2307

Papiは、DadyにこのDJキーボードをトイザラスでかってもらいました2302presentpresent   あと、とても暖かそうなかっこいいダウンジャケット(リバーシブル;迷彩柄&黒)と他洋服もろもろ もかってもらいました。present このときあんなに面白がって遊んでいたのに、家に帰って渡したら、ほとんど興味を示さず crying がっかりですが、ま、ボチボチ興味を示してくれればいいですが・・・おぼっちゃん。

  ちなみに私はワイヤレスのコピーマシーンいただきました。 コートかなんかがよかった・・・despair 

  ま、わがまま言えません。 ありがとうございました。heart01

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ひさびさの夫婦喧嘩、悪夢再びよみがえる。

  本日のNew York sun でございます。 が、しかしチョー寒い (ちまたのうわさによると)らしい。わたしは寒いので一歩も外に出ず・・・・ coldsweats01

  ところできのうは、ひさしぶりの 悪夢 がよみがえった・・・ shock

  飲んだらたちの悪いAmorcitoであるが、きのうは仕事などのストレスからか、おタバコをご購入され、お酒 wine をいただきになったのだ。 なんとタバコsmokingが$9.00 だったと必死にいかりをぶつけてくる・・・ bearing タバコsmoking も日本円にすると、ここNew Yorkでは1,000円か~・・・と思うと、半端ない高値です。といった感じです。 「体に有害だと知りながら、こんなに高いお金を払ってまで買ってしまうのはなぜか・・・sign02」とAmorcito,つぶやいておりました。ほとんどタバコはお吸いにならなくなられましたが、お酒を飲む時は必要なようでございます。 しかたない・・・ これが smoking中毒 というものです。New Yorkは数年前から、バーですら、禁煙 nosmoking となり、はじめはみんな窮屈そうだったけど、それも当たり前になってきた気がする。バーで楽しくお酒 bar beer を飲みながら吸うsmokingも、冬は寒空の下、凍えるなか自分を拷問し、外で寂しく吸うといった感じなわけで・・・。それでも必要とされるタバコの魅力とはなんぞや・・・? 

  話がそれてしまった・・・。とにかくタバコの高値も引き金の一つということがいいたかったわけです。

  Papiの誕生後、すっかり更生したAmorcitoですが、やはりたまにのみたくなるみたいで、たまに、お友達のところに飲みに行かれております。本当はうちで飲みたいみたいですが、私が飲まないし、飲むとたちが悪いので家で飲んで欲しくないということで、外で飲むように頼んでいたのですが、最近寒く、腰を痛めたということもあり、家で飲み始めたわけで・・・。さっそく15~20分後には酔いが回り・・・

  酔ったときの特徴  声が馬鹿でかくなるimpact 他人様の迷惑もかえりみず、音楽を爆音でかけまくるnote、 ドラマのような架空の世界に入り込み、意思の疎通が困難になる sad

 という感じで、人に迷惑をかけるのと引き換えにご自分は思う存分違う世界に入り込み、楽しんでいる様子がうかがえる。 昨日は、一人ドンチャン騒ぎが、深夜 night 12時過ぎまでPapiをまき沿いに繰り広げられた。

                  さすがにきれた pout

  以前はしょっちゅうこんな感じで本当に困っていたが、今回久しぶりで、以前の悪夢を思い出し、ぞぞっ、としたが、それを考えれば、ほぼ180度かわったAmorcito,ちょっとすごいと思う。(でもそれをいつも何度も自分で褒めたたえるから、価値が減る)

  とにかく、こんなことはもうないように、外で飲んでいただくよう厳重注意した。

  酒は飲んでも飲まれるなとはよくいったものだ

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毎月19日がこわいです・・・

  12月20日、本日のNew Yorkはsunでございます。

  さてさて、昨日の天気予報は、まんざらでもなかったみたいで、昨日は snow でございましたsign03 今年はじめての雪でございます。

  今日は、Amorcitoはお休みで、近所(Wood Side)にでかけ、八百屋で野菜調達banana     ランチdelicious お気に入りのBBQのお店でご飯しました。

  2226_2   ご近所の雪の様子です。

        2242いつも利用している八百屋さんdown

 きょうはいつになく野菜を大量買いしたsign03 なぜならばAmorcitoの希望でちゃんこ鍋をするからだsign012243

いつも散歩する、ルーズベルトアベニュー leftright

 さて、昨日でうちのかわいいPapi、丸15ヶ月になりました。ちょっとした誕生日気分でございます birthdayheart04birthdayheart04 12ヶ月までは、毎月19日は誕生日として考えていた私たちですが、ケーキcake買ったりなんだり、段取りの件でいつもAmorcitoと喧嘩をしてしまうため、9ヶ月くらいからやめにしました coldsweats01                                           毎月19日は Papiの誕生日birthday から魔のFighting Dayshock とよばれるようになったのです。 不思議なことに、お祝いをやめたあとも、毎月19日にはかなりひどい喧嘩になります。理由は日常生活の中でのこと。はっきり言って毎月19が来るたびにハラハラします。これは偶然かsign02 それともなにかのいたずらなのか・・・ 本当に不思議でなりません。

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ひさびさのマンハッタン。59stの摩訶不思議。

  本日のNew Yorksunでございます。

  さてさて、本日、ひさびさにマンハッタンにいってきました。 先日インターネットのムービングセールというもので、購入するものを引き取りに、アッパーイーストサイドまではるばる行って来ました。購入品は、きゅうす・大きな肩からかけられるランドリーバッグ・突っ張り棒。あとは折りたたみ式の収納箱は残っていてもって帰れそうならば・・・ということであった。

  結局、折りたたみ式の箱、写真で見たより古くて大きくて重かったがなんだか買う風sign02なことになっていてことわれなかったweepそして商品をうけとったが、その時、突っ張り棒はありません・・・とsign03 たった2品のためにわたしはここまではるばるやってきたのかcryingそんなだったらここまで緊張しながら体力つかってくることなかった・・・3品でも微妙に考えてたのにthinkあげくのはてに箱まで買うはめになったcoldsweats02そしてきゅうすに網がついていなかったのもショックです・・・思っていた値段の2倍はかかって$15dollarその価値はなかったですわ・・・。グチグチいうのはここまでにします。

  いやいや、ベビーカーでの地下鉄のたびはほんとに緊張します。本日は初めてのエリアでまた緊張しました。なるべく階段を利用せずにいける乗換えを考え

seventrain 61ST WOODSIDE soon N or Wtrain 59ST soon fourfivesixtrain 86ST というふうにいくことにしました。 が、またまた今日も・・・ 59STの駅でsevenから緑のラインに乗り換えてアップタウンへ行く時、100%間違えてダウンタウンのtrainにのってしまうのです。もちろん今日もやっちゃいましたcoldsweats01   なぜだ・・・・sign02   めったと59STで乗り換えてアップタウン方面には行くことないけど、年に一回くらいあるかも・・・?そのことを覚えていても電車に乗って次の駅に着いたときに気づく・・・。  最後のプラットホームの上に記された看板しっかり見なきゃ・・・。でも一回チョー注意してそれしたにもかかわらず、ダウンタウンのほうに乗っていたことがあるshock・・・。ほんとのほんと。あそこにはわたしにアップタウンに乗り換えて欲しくないなにかが住んでる。いつもきつねにつままれた感じですわ・・・。 もちろん次も同じミスをする自身があります。 (seventrainからの乗り換えの時だけです)

  自分以外の人はそんな経験はないのかと不思議でございます。

  今日は、たくさん歩きましたhappy01 86ST  から 42ST まで。その話はまたあすにでも・・・。あすはうちで1日中すごすことになるとおもいますので、ネタを控えておきますsign03

  

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は・は・はじめてのブログとやら・・・

sun はじめて、ブログというものを書いてみます。おはずかしながら、今年はじめてブログという言葉の意味をしったわたしがそのブログとやらに初挑戦でございますhappy01

 New Yorkの天気は本日rainでございます。小雨の中15ヶ月になる息子を連れ、ランドリーに洗濯に行ってきました。

 憧れのNew York生活confidentが実際普通sign02のNew York生活thinkとなってしまった気がします。

 憧れのマンハッタン、憧れのタイムズスクエアー、憧れのセントラルパーク・・・のままで日本に帰るはずが、こちらの国、アメリカに身をおかせていただくこととあいなりました。

 ただいま子育て真っ最中wobbly。息子Shawn (papi) も元気はつらつでございます。夫 (amorcito) も毎日お仕事car運転平均10時間がんばっています。

 New Yorkにきてから、はやくも8年が経とうとしております。こちらに来てから、結婚shine出産shockと一通りすませ、今は専業主婦として、ハチャメチャwobbly子育てしながら毎日よくわからないまますぎていきますsweat01 そんな日常生活にちょっとした楽しみとしてブログができればいいなheartと思いはじめてみます。続くかどうかは乞うご期待sign03

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